欲深いから勿体ない

私は、自分のことを解って欲しいと常々想っているみたいです。

だけど、ちっとも理解されてないと感じているみたいだと気付いてしまいました

それは、傲慢だからです、きっと

その意識は、私を理解し、受け入れようとしてくれる人々の心を踏みにじってるみたいです。

私のいう理解とは、、、

私が理解してもらっていると思える状態や条件は

【叱られない、怒られない、批判されていない、甘いことを言ってくれる、バカにされない、厳しい口調や態度を与えられない】

そういう意味とイコールなのかもしれないと気付いて、ものすごく恥ずかしいやら、気まずいです。

師匠から常々

『誰かの想いに寄り添ってみる(視る、見る、観る)こと』

についての教えを頂きます。

その度に私は

【やり方が解らない】【どうしたらいいか解らない】【正解は何?】

そのような思考でその教えを受け止めているように感じます。

師匠はやり方(Do)の話をしていません。

在り方(Be)の話をしています。

私はいつも話をすり替えて聞いているのかもしれません。

やり方を知らないから、出来ないという論点のすり替え。やり方ではなく、在り方や想いを言われているのに。

想いの部分を言われても、そのやり方や行動の仕方、HOWTOばかりに着目していて、齟齬が出ます。

想いが変われば、行動も自然と変わります。

行動が変わらないということは、想いを変えていない可能があります

そのことを強く感じました

大事な人達に対して、出している言動が、とても大事にしているとは思えない私です。

私自身のことも私は大事にしてません

だから、《もったいない》

勿体である努力をしていきます。

勿体ある私になりたいので。

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