無明と指針

あぐりな元居宅ケアマネのたまちゃんです。

私は、仏教の教えを大事にしてます。信仰心は人並み以上にあるつもりです。それでこそ、スピリチュアル大好きっ子なので、目には見えない心や精神世界、神や仏、宇宙の波動や法則を大事にしています。

しかし、何かの宗教、宗派には傾倒はしません。自分が良いと思えば取り入れ、不快に感じれば距離を置くというスタンスです。信仰心に関しては、割と軸があるので、自分の中の感覚に従い信仰しています。

さて、今日は無明についてのお話を書きます。

無明、それは悩み苦しみの種です。

無明とは、何も分からない” ことではなく、すべて分かったつもりでいる ことをいいます。

無明は苦しみを生む根源であり、無明であるがゆえ、煩悩が生まれ、思い悩み、苦しみが生じるとされます。

無明は、自分が無知であることを知らない状態です。

仏教では、無明=苦しみを生む根源と考えられています。ここでいう苦しみの定義とは「自分の思い通りにならない事に対して思い悩む」ということになります。

無明は、文字通り「明かりが無い」という意味も持ち合わせるため、目の前が真っ暗で、正確に把握できない状況にあるため、お先真っ暗!先が見通せないとなり、物事に思い悩み、結果、苦しみを生む要因だという話です。それは、自分が知らない事を知らない傲慢さが引き寄せます。自分の尺度しかないので、すぐ無明になるということです。人生、1択しかない危険の話。

何日か前のブログで、人は自分にとって意味や目的のないことに思い悩み、苦しみ、ジゴクを見る(自業苦=自分の業に苦しむ)内容を書きました。

人の苦しみは自分の思い通りにならないで苦しむこと、または、そもそもになすべきことが解らずに苦しむ事、すなわち、自分自身の度を越えた欲望が、満たされていない状況🟰苦しみと、仏教では説かれています。

度を越えた欲望とは、人が生活していく上で必要な欲求の度を越えていることであり、煩悩を意味表しています。

人間には108の煩悩があると言われています。暮れにつく、除夜の鐘のやつです。

108の煩悩の発端は無明にあるという事だそうです。

無明と並び、人間三毒である、貪欲(欲張った気持ち)・瞋恚(激しい怒り)・愚痴(真理を知らず、愚かな状態)の3つの心の動きも苦しみを作るそうです。

これらの3つの心から煩悩が生まれ、煩悩が人を無明にし、悩み苦しみが出るという流れです。

欲(煩悩)を捨てろ‼️という話を聞いたことがあるかと思いますが、ここまで話してきて、果たして、欲(煩悩)が悪いのか?欲(煩悩)は捨てなければいけないのか??について考えてみました。

私は、色んな話を聞く中で、仏様もキリスト様も欲があったと思います。欲まみれといいますか。欲を願いや愛と変換してみればの話です。

視点の問題というか、捉え方の問題というか。

欲、煩悩、無明はネガティブというか、自己の内側にあると思います。

願い、愛、有明はポジティブというか、自己の外側にあると思います。

抽象的な話になりましたが、欲を持つことは悪いことではないが、欲の持ち方、捉え方、在り方になってくると思います。

無明の状態から抜け出すには(学び)(愛び)

知識や知恵となってくると思います。自分には確かにある、煩悩(欲、無明)と向き合って、在る事を分かりながら、どうするか?を導き出せる指針や目的、軸を常に模索しながら、豊かに成幸していきたいと思います。学び、愛んでいける自分であろうと決意します。

それが私の欲(煩悩)です。

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